トメ
「新しいお勤め先でも、今まで同様に頑張るのですよ」
カヨ
「はい」
ハナ
「…………」
あれから数日。
お屋敷に残るのはトメさんにカヨさん、そうして私だけだった。
皆、早々に新しい勤め先へと行ってしまった。
そうして、私たちも今日、このお屋敷を去ることになる。
幸い、私はカヨさんと同じ勤め先で、最後の最後までお屋敷に残れていた。
たった数日で、お屋敷の中はガランとしてしまった。少しでも借金の返済に当てられるようと家具などもほとんど売ってしまったらしい。
トメ
「さ、あまり遅くならないうちに……」
トメさんが私たちをうながすように言う。と、玄関の扉がゆっくりと開かれた。
そこには、体調が優れなそうな奥様の姿。
あの日、倒れて以来、食事もまともに取ることもなく以前のような威圧的な空気はなくなっていた。
トメ
「まあ、奥様。どうなされましたか?」
千代
「……あなたたちも出て行くのですね」
カヨ
「はい。今までお世話になりました」
ハナ
「…………」
カヨさんはすっきりしたように、はっきりと奥様へ言ったけれど私はどんな言葉を出せばいいのかわからずに黙ってしまう。
千代
「……あなたには、辛くあたってしまいましたね」
ハナ
「奥様……」
とても信じられないような、優しい言葉に思わず顔をあげる。
すると、背後から人が駆け寄るような音が聞こえた。
清人
「ああ、よかった。まだいてくれたか」
カヨ
「若旦那様、いかがなされましたか?」
清人
「見送りだ。……今まで、本当に世話になった」
カヨ
「こちらこそ、お世話になりました。新しい勤め先でも、精一杯働かせてもらいます」
普段見せない礼儀正しさのカヨさん。
きちんと、若旦那様やトメさん、奥様にも挨拶をしていて……。
それなのに、私は何も言えないでいた。
清人
「ハナさんも、短い間だったがありがとう」
ハナ
「……ごめんなさい」
清人
「何を謝る。謝るのはこちらだ。安定した職を与えてやれなかった」
ハナ
「そ、そんなこと……。私、大してお仕事もできなかったし……」
清人
「そんなことはない。ハナさんは、よく勤めてくれた」
トメ
「……そろそろ」
私たちの言葉を割くように、トメさんが申し訳無さそうに声をかけた。
カヨ
「ほら、ハナ行こう」
千代
「新しい勤め先でも頑張ってくださいね」
清人
「……今度の勤め先は大丈夫だ。安心しろ」
次々に言葉が振りかかる。
行かなければ。もう、お屋敷を去らなければ。
それなのに、どうしたことか私は荷物を置いてしまった。
カヨ
「ハナ……?」
ハナ
「私……私やっぱり行けないです。私、お屋敷に戻ります」
カヨ
「え?」
トメ
「な、何を言い出すのですか、ハナ」
ハナ
「ごめんなさい、カヨさん。申し訳ございません、若旦那様、勝手を言ってしまい……」
トメ
「先方にはもう伝えてあるのですよ。それを今になって……」
ハナ
「わかっています。自分がどれだけおかしなことを言っているかは……それでも、私はここにいたいんです。若旦那様に仕えていたいんです!」
清人
「ハナさん……」
ハナ
「お給金はいりません! ですから、私を残らせてください!」
カヨ
「ちょ、ちょっと。何言ってんの。それじゃあ、ハナの家族はどうなるの?」
ハナ
「しばらくは……貯金を送ります。足らなくなったら……働きます。だから、それまででもいいから……私、私……」
気持ちが涙となって溢れ出る。
離れたくない。今、ここを離れちゃいけない。
私の頭の中で警鐘が響き続けていた。
カヨ
「はーあ、しょうがないなぁ。わかったわかった、あんたの気持ちは理解したよ、ハナ。だから泣くのやめな」
ハナ
「カヨさん……?」
カヨ
「新しい勤め先は私が2人分の働きする。だから、ハナはここに残りな」
トメ
「カヨ、な、何を言い出すのです」
カヨ
「こんな状態のハナを連れていけるわけ無いじゃないですか。もう、行かないとですね。それじゃあ」
カヨさんは、一度頭を深く下げてそうして私たちに背を向けた。
清人
「ハナさん……いいのか?」
ハナ
「はい。今まで以上にお勤めさせていただきます」
トメ
「ハナ……まったく、仕方がない子ですね」
ハナ
「トメさん、これからもよろしくお願いします。奥様も、どうぞよろしくお願いします」
千代
「……頼みましたよ、ハナ」
ハナ
「はい! もちろんです。さ、トメさん掃除をしましょう!」
トメ
「え、ええ」
私は涙を拭き取り、元気よく言った。
清人
「戻った」
ハナ
「お帰りなさいませ、若旦那様」
清人
「ハナ、何度も言っただろう。名前で呼べと。もう私は若旦那でもなんでもない」
ハナ
「あ……」
千代
「まだ、ハナはその癖が抜けないようですね」
ハナ
「申し訳ございません……」
清人
「謝るな」
ハナ
「は、はい。あ、今夕食をお持ちいたします」
数週間前、とうとうあのお屋敷を手放した。今は、庶民となんら変わらない家で私たちは暮らしている。
とは言っても、実家から比べたらはるかに豊かな暮らしだ。
お風呂も、お手洗いもきちんとあって、部屋だってはるかに広い。
この生活を、奥様は貧しい暮らしと言うのだから、きっと私の実家を見たら卒倒してしまうかもしれない。
若旦那様……清人さんはいつもと変わらなく会社を動かしている。
今まで以上に働いているようで、この借家に戻ってくることが遅くなることが多くなった。
奥様は、すっかり病気がちになてしまいめったに外出することもなく、刺繍や編み物をして日々を過ごしている。
私とトメさんはお屋敷にいた頃のように掃除や家事に精を出して入るけれど、今までよりは時間に余裕が持てる。
私はその間に、小さな畑を作ることにした。
いくらかでも、家計に貢献できるように。
千代
「清人さん、仕事の方はどうですか」
清人
「まあ、あまり変わりないですね。なかなかこの不況では……」
千代
「あまり、働き過ぎてはなりませんよ。今の収入があれば、借金を返しながらでも細々となら暮らせるのですから」
清人
「いえ、新しい勤め先を蹴ってまでついてきてくれたハナさんに給金が支払えるようになるまでは」
ハナ
「そ、そんな。私のことはいいです。好きでついてきたんですから」
清人
「そうはいかない。これから先のことを考えればやはり会社を大きくしなくてはいけないから」
夕食を口にしながら、清人さんは深刻な顔つきで言った。
(私に何か出来ることあるかな……)
ハナ
「だ、大丈夫ですって。清人さんなら大きく出来ます!」
満面の笑みを作りながら言うと、清人さんはふっと微笑んだ。
清人
「……この漬物は?」
トメ
「ハツカダイコンでございますよ。ハナが作りました」
清人
「ハナさんが?」
ハナ
「え、ええ。あの、少しでも家計の負担を減らすために裏庭に畑を作らせていただいたんです。他の野菜の苗も植えましたから、時期になれば収穫できますよ。まさか、実家でやっていたことが役に立つとは思いませんでした」
トメ
「畑に関するハナの知識は私たちでは到底かないませんからね。助かりますよ」
千代
「なかなか美味でしたよ。今まで食べていた物とはずいぶんと違う食事ですが、味わい深い料理ばかりですからね。トメとハナの料理の腕は見上げたものです」
ハナ
「奥様……」
千代
「さ、清人さんもそのハツカダイコンとやらを召し上がってくださいな」
清人
「ああ、では」
一口、清人さんはハツカダイコンを口にする。
清人
「瑞々しいな。それに歯ごたえも最高だ」
ハナ
「わ、本当ですか?」
清人
「ああ。しかし、ここに越してきてまだそんなに日が経っていないはずだが、もう収穫できたのか?」
ハナ
「ええ、ハツカダイコンですから。約20日で出来るんですよ。冬以外ならいつでも作れますし、場所もそんなにとりませんからね」
清人
「……ふむ、ハツカダイコンか」
何かを考えるように、清人さんは再びそれを口にしたのだった。
借家での生活も慣れた頃。
私は清人さんに会社へと呼ばれた。
初めて入るそこに、社長として仕事をしている清人さんがいた。
清人
「ああ、ハナさん。すまないな、忙しいのに」
ハナ
「いえ、それでお話とは……?」
清人
「今日は仕事の話をしたいと思う」
ハナ
「仕事……ですか?」
清人
「ああ、そうだ。まあ、座ってくれ」
清人さんに促され長椅子に座る。あまりの柔らかさに驚くと、清人さんは小さく吹き出した。
清人
「それで、仕事の話なんだが……ハナさんに協力をしてほしいと思っているんだ」
ハナ
「私で良ければ……ああ、でも、私が仕事なんて……」
清人
「いや、ハナさんでなければ出来ない仕事だ」
ハナ
「え、えっと……どんなお仕事ですか?」
清人
「ハツカダイコンだ」
ハナ
「ハツカダイコン……?」
清人
「ハツカダイコンは収穫までの期間が短い、また場所をとらない。そうだな?」
ハナ
「ええ、なので庭なんかが狭くても作れるんですよ。あ、東都なんかの家にはぴったりかもしれないですね。庭、小さいですし」
清人
「ああ、そうだ。だから、その仕事をハナさんに任せたい」
ハナ
「はい?」
清人
「ハツカダイコンの育て方や、必要な広さ等を教えてほしい」
ハナ
「え、えっと……それが仕事とどう関係あるんですか?」
清人
「この前食べたハツカダイコンは、今まで口にしてきた野菜のどれよりもおいしかった。それは、やはり採れたてだからだろう。そこで、私は考えたんだ」
ハナ
「考えた……?」
清人
「ハツカダイコンの苗、必要分の土、それと必要な大きさの鉢植えを組み合わせて売るんだ。そうすれば、東都に住みながらも気軽に野菜が作れる。自らが作った野菜を食すことが出来る」
ハナ
「あ、それいいですね!」
清人
「ああ、だからその仕事をハナさんに任せたい。もちろん、きちんと会社から支払をする」
ハナ
「え? そ、そんな。ハツカダイコンの作り方を教えるだけですよ? お給金なんていただけません」
清人
「何を言っている。ハナさんの持っている知識をこの会社が買うんだ」
ハナ
「買うだなんて、そんな大層な物じゃ……」
清人
「ハナさん、知識は財産だ。どんな知識であれ求める人間がいれば、それは財産になる。だから、支払いはさせてくれ」
ハナ
「で、でも……」
清人
「まずは、鉢植えの大きさからか。それから、土選びも君に任せたい。後は苗の仕入れと……やることが盛りだくさんだな」
ハナ
「大きさなんていわれても、私、あの、字書けませんし……」
清人
「口頭で構わない。この前、ハツカダイコンのことを知り、事業拡大にはこれしかないと思った」
清人
「正直、俺が考える事業はありきたりなことしか思い浮かばなかった。だが、それでは他社と競うばかりとなり事業拡大にはつながらない」
清人
「私は、ハツカダイコンにかけてみたいんだ。協力してくれ、ハナさん」
ハナ
「は、はい! と、言うことは……また、若旦那様に戻りますね。私の主になるわけですから」
清人
「ん?」
きょとんとした清人さんが私を見た。
清人
「それは違うな。私はハナさんの主になるわけではない。これからは、共に事業の取り組む仲間だ」
ハナ
「仲間……?」
清人
「ああ、そうだ。そうとなれば、他の従業員にも挨拶を」
ハナ
「え? で、でも! そ、そんな仲間だなんてっ……私はハツカダイコンの作り方ぐらいしか知りません」
清人
「本当にか? いい苗の選び方や、いい土の作り方だって知っているだろう?」
ハナ
「そ、それはそうですけど……」
清人
「この会社には、ハツカダイコンの作り方を知っている人間なんていない。ましてや苗の選び方やいい土の作り方なんてこの辺りに住んでいる人間は誰も知らないだろう」
清人
「自信を持ってくれ、ハナさん。君の知識が、この会社を、松乃宮の家を救うんだ」
ハナ
「私が……救う……?」
清人
「ああ、そうだ。一緒に、この事業をやってくれるな?」
ハナ
「清人さん……。はい、私で良ければ」
私が笑顔で頷くと、清人さんは手を差し出した。
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