清人
「……ハナさんには関係のない話なのだが、こぼしてもいいだろうか」
ハナ
「え?」
清人
「父様の遺産のことだ」
ハナ
「あ……。はい。私でよろしければお聞きします」
視線を伏せた若旦那様は、ゆっくりと話し始めた。
清人
「結果的に言えば、親族分裂にも似たような状態になってしまった」
ハナ
「分裂っ……?」
清人
「私は遺産を分配するはずだったのだが、全てよこせと紀美子をはじめ親戚が息巻いてな」
ハナ
「え……?」
清人
「私に残されたのはこの屋敷のみ。それ以外の物を紀美子たちで分けることとなった」
ハナ
「ど、どうしてですか!?」
清人
「私は今、会社を経営しているが元は父様が援助してくださった金で立ち上げた会社だ。行く行くは、父様の会社と合併するはずだった」
清人
「親戚が言うには、その援助があったからこそ今の地位があるのだと。だから、その援助を遺産と思え、とも」
ハナ
「そ、そんな! 横暴です。旦那様の会社はどうなさるのですか?」
清人
「親戚筋で継ぐと言っていたな」
どこか他人ごとのように若旦那様はつぶやいた。
ハナ
「ど、どうして紀美子様や親戚のお方たちの言うことを鵜呑みにしてしまうのですか」
清人
「……嫌気が差していたんだ。親戚たちにも。あの者たちはことあるごとに金の問題を持ちだしていた。だから、これ以上関わりたくなかったのだ」
ハナ
「だからって……」
清人
「私には屋敷も会社も残されている。これで、あの親戚連中との付き合いが切れると思えば安い物だ」
ハナ
「紀美子様は……?」
清人
「親戚連中の家に移り住むそうだ。これを機に花嫁修業と称して家を出たい、と」
ハナ
「ここを出られるんですね」
思わず、安心したように言葉をもらすと、若旦那様がふっと微笑んだ。
ハナ
「あの、でも何故ですか?」
清人
「花嫁修業なんて、体の良い言い訳だ。紀美子にしてみれば遺産を手に入れた親戚の家の方がよっぽども暮らしやすい。口うるさい私もいないしな」
若旦那様は自嘲した。
こんなとき、どんな言葉をかけるべきなのだろう。
若旦那様の身に降りかかるたくさんの出来事は、私には処理がしきれないほどに壮大な話だ。
遺産だとか、会社だとか……私にとっては遠い言葉。
清人
「来週からは、私と母様しかこの屋敷にはいなくなるんだ。父様も紀美子もいない。女中たちの仕事量が減るんだ」
清人
「何人かは、この屋敷を去ってもらわなければならない」
ハナ
「っ!!」
決定的な言葉に、私は息を呑んだ。
清人
「もちろん、仕事先はこちらが保証しよう。ちょうど、酒問屋を営んでいる稲山という家が女中を集めていたから、そこに掛けあってもらおうと思う」
ハナ
「…………」
清人
「誰が残るかはわからないが、稲山に行ったほうが仕事は安定するだろう」
ハナ
「わ、私は……お屋敷へ残れないのですか?」
震える声で尋ねると、若旦那様は考えるような顔つきになる。
清人
「ハナさんはまだまだ仕事を始めたばかりだ。年季が明けるまでのことを考えれば、どこか別の屋敷へ行くべきだ」
ハナ
「そんな……っ」
清人
「そんな顔をしないでほしい。大丈夫だ、働き口は私が保証する」
ハナ
(違う。そうじゃない……私が心配してるのは……)
言葉にしたいけれど、言ってしまっては若旦那様に負担を強いることになってしまう。
私は押し黙ったまま若旦那様を見た。
清人
「すぐにすぐ、どうなるわけでもないんだ。ハナさん、明日からも頼んだぞ」
ハナ
「はい……」
私はそのまま頭を下げ、離れへと戻って行った。
旦那様の葬儀が終わったのは一週間前。
そうして、紀美子様は昨日このお屋敷を後にしていった。
カヨ
「はー、せいせいする」
ハナ
「もう、カヨさんってば」
カヨ
「あのワガママお嬢様がいなくなったなんて嬉しすぎちゃってさ。何されるわけじゃないけど、いるだけで怖いんだから」
なんて愚痴をこぼしながら、庭の掃除をしているカヨさん。けれど、ふと考えるように手を止める。
カヨ
「もう、聞いた? 何人か別のお屋敷へ行くことになるって」
ハナ
「はい。せっかくこのお屋敷で仕事覚えられたのに……」
カヨ
「せーかっく紀美子様がいなくなったんだから、ここで働きたいけど……どうなるんだろうね」
ハナ
「ええ……あら、お客様が」
カヨ
「え? あ、本当だ」
ふと、玄関を見ると数人のスーツを身にまとった男と人たち。
慌ただしく玄関を出たトメさん。
なんだか、いつもの来客と雰囲気が違う。
それはカヨさんも気がついたようで、私に竹箒を渡すとこっそり玄関へと近づいていった。
ハナ
(……嫌だわ、胸騒ぎが)
2本の竹箒を持ったまま、私はカヨさんが戻ってくるのを今か今かと待っていた。
ハナ
(あの人たちは、なんなのかしら……)
自然と、竹箒を握る手に力が入ってしまう。
ハナ
(悪いことじゃないわよね)
祈るような気持ちで、玄関を見るけれど不安が消えることはなかった。
ハナ
(え……? あれは……!)
玄関を見ていた私は、走りこんでくるある人を見て驚いた。
若旦那様だ。
この時間はいつも仕事で、お屋敷へ戻ってくることなど今までなかったはずなのに……。
さっきよりも大きな胸騒ぎが私を襲う。
と、カヨさんの姿が見えた。
カヨ
「大変、大変だよ!」
ハナ
「なんだったんですか……?」
カヨ
「旦那様の借金が、あったって……」
息を切らしながらのカヨさんの言葉に、私は思わず愕然とした。
カヨ
「それで、取り立てに来ていて……」
ハナ
「借金だなんて……どうしてですか? 旦那様は会社だって経営してらっしゃいましたし……」
カヨ
「それがね、花街で遊び歩いていて仕事もロクにしていなかったんだって。で、花街ではツケがたまってく一方」
ハナ
「で、ではその返済は……?」
カヨ
「とんでもない額らしくて、ちょっとやそっとじゃ返せないって。まあ、その辺はあんまりはっきり聞こえなかったんだけど」
ハナ
「そんな……」
カヨ
「……このお屋敷、どうなっちゃうんだろ」
ハナ
「本当に……」
私は不安から、竹箒をいっそう強く両手で握った。
その日の夜。
私たちは食堂に集められた。
そこには、若旦那様と奥様もいて。
久しぶりに見た奥様は、なんだか今までとは打って変わってやせ細り、表情に覇気が無かった。
清人
「仕事も終わっているのに集まってもらってすまない」
そう切り出した若旦那様。
どこから漏れたのか、女中さんたちはみんな借金のことを知っていた。
だから、こうして集められた理由を薄々わかっていたのだと思う。
私も、そうだった。
きっと、今日限りにここのお屋敷を去らなければならない。
清人
「近々、この屋敷を手放すこととなった。急なことで、すまないが理解してほしい」
清人
「新しい仕事先は、既に決まってある。話も通してあるから今週中にはそちらへ行ってほしい」
皆、覚悟はあったはず。
けれど、突然すぎる言葉に食堂内は騒然とした。
清人
「トメ、これを。ここに女中たちの新しい勤め先が書いてある。割り振りも済ませた」
トメ
「……かしこまりました」
トメさんは、いつもと変わる様子なく頭を下げ、その紙を受け取った。
清人
「では、今日はこれで。各自、トメさんに今後の勤め先を確認しておいてくれ」
そう言った若旦那様は奥様と共に食堂を去ろうとした。
その時、奥様の体はまるで糸が切れたかのように倒れこんだのだ。
トメ
「奥様!」
咄嗟にかけよるトメさん。
再び騒然となる食堂内。
ある女中さんは医者を呼びに食堂を飛び出し、また他の女中さんはお水を取りに台所へ走る。
途端に慌ただしくなる食堂。
私も倒れこんだ奥様の元へと駆け寄った。
奥様の容態も落ち着き、トメさんをはじめ、女中さんたちは離れへと戻った。
けれど、私はなんだか若旦那様のことが気にかかり部屋へ戻ることが出来なかった。
清人
「……ハナさんの勤め先も、きちんと決めてある」
ハナ
「このお屋敷には、誰も残らないんですか?」
清人
「ああ、残っても給金が支払えないからな。ただ、トメにだけは残ってもらう。さすがに、私と母様だけでは……」
ハナ
「……そうなんですか」
清人
「来月には、この屋敷も抵当に入る」
ハナ
「え!?」
清人
「父様の遺産は既に分配済みだ。その上、私の財産では補いきれないほどの借金がある。屋敷を手放すしか無い」
ハナ
「そ、そんな……」
清人
「しばらくは、知人のつてで紹介してもらった借家に済むこととなるだろう」
ハナ
「私はどうすれば……?」
清人
「新しい勤め先で頑張ってくれ」
言葉が、出なかった。
東都から出てきて今日までの全てがガラガラと音を立てて崩れていくようで……。
ハナ
「若旦那様はこれからどうするおつもりですか……?」
清人
「私は今までとは変わらない。ただ、会社をもう少し成長させなくてはこれから先がきついだろうな」
清人
「今は……自分のことより、母様のことだな。あんな母親でも……やはり心配なんだ」
ハナ
「奥様の容態は……?」
清人
「過労だろう、と。確かに父様の葬儀からずっと慌ただしかったからな」
ハナ
「……あの、私を借家へ一緒に連れて行ってくださいませんか? ご迷惑になるようなことはしませんので」
清人
「……そうしたいのはやまやまだが、今のような給金は保証できない」
ハナ
「それでもっ……!」
それでも、今の若旦那様を置いて他のお屋敷へ行くことなど考えられなかった。
清人
「そう思ってくれるだけでありがたい。実際問題、ハナさんは金が必要だろう? だったら、ここにいてはいけない。新しい勤め先に行くべきだ」
ハナ
「嫌ですっ」
清人
「ハナさん、私を困らせるな。ハナさんが稼がなければ家族はどうなる?」
ハナ
「そ、それは……で、でも、今までこのお屋敷にはじゅうぶんすぎるお給金をいただきました。私も、少しですが貯金が出来ています。そのお金があれば、家族は半年ぐらいなら生活出来ますし……」
清人
「たかが半年だ。それから先はどうする?」
ハナ
「それは、その……」
清人
「感情的になってはいけない。冷静に、今の状況を見極めなければならない」
ハナ
「……申し訳ございませんでした」
清人
「いや、いいんだ。ハナさんのその気持ちは今の私にとっては救いだ」
ハナ
「若旦那様……」
清人
「……華族の末路は、こうも哀れなんだな。この屋敷を手放したら、爵位返上をしようと思う」
ハナ
「爵位返上……?」
清人
「今まで、借金にまみれた華族が爵位返上していくさまを他人事のように見ていたが……まさか自身がそうなるとは思わなかった」
ふっと笑った若旦那様の表情は、キリキリと私の胸を傷めつけた。
清人
「もう、私はハナさんにとっての若旦那でもなんでもないんだ。爵位を失い、庶民と変わらない男だ」
ハナ
「そ、そんなことありません! 私にとっては若旦那様はいつまでも若旦那様です。あの日、駅で声をかけていただいたときからずっと」
清人
「ハナさん……本当に、君の言葉に私は救われている。本当なら、ずっと君を私の側に置いておきたいところだが……」
ハナ
「え?」
清人
「い、いや……なんでもない。さ、もう離れへ。新しい勤め先は明日にでもトメさんから聞いてくれ」
ハナ
「え? え? あ、あの……っ」
若旦那様は、私を押し出すようにし、部屋の扉をしめてしまった。
ハナ
(若旦那様……!? 一体何を言いかけたの……?)
ハナ
(本当なら、ずっと君を私の側にって……どういうこと……?)
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