文学から探る男心 -野村胡堂「百唇の譜」-

文学から探る男心 -野村胡堂「百唇の譜」-


It is assumed that the woman must wait, motionless, until she is wooed. Nay, she often does wait motionless. That is how the spider waits for the fly.


女は大人しく男を待っているように見えるだろう。でもそれは蜘蛛が蝿を待っているのと同じこと。

バーナード・ショウ

唇は目と同じく人の印象を決める大事なポイントです。人によって、分厚かったり、薄かったり、くすんでいたり、ひび割れていたり。
今回はそんな唇をめぐる愛憎劇をご紹介します。

本作「百唇の譜」は銭形平次捕物帖で知られる野村胡堂が作者です。
この話を一行で説明すると「駄目男と浮気した女が、復讐の末に幸せになる話」です。

許嫁のいる武家の娘真弓(18歳)と、従兄弟の千代之助(21歳)が人目を忍んで会うところから、物語は始まります。

 千代之助は二十一、荒井家の冷飯食いで、男前ばかりは抜群ですが、腕も学問も大なまくら、親に隠れて、小唄浄瑠璃の稽古所に通ったり、小芝居の下座で、頼まれれば篠笛しのぶえを吹いたりするような心掛ですから、どんなに間違ったところで伯父おじの小田切三也が、娘の婿にする筈はずもありません。

出典:野村胡堂 百唇の譜

千代之助は勉強もしなければ働きもしない、侍のくせに強くもない。
所謂ニートです。
ただ顔だけはもの凄くいい男でした。

魂を吹っ込んだ人形のように綺麗な娘で、千代之助とは幼な友達、それが何時いつの間にやら、恋心に変ったのですが、父親の三也は、そんな事に一向お構いなく、これも五六年前から小田切家に引取ひきとって居る、遠縁の若侍半沢良平はんざわりょうへいと厄年を嫌って、此この秋は祝言をさせる段取まで決って居たのです。

出典:野村胡堂 百唇の譜

そしてヒロインの真弓もまた、美しい娘です。
そんな彼女の婚約者は、真弓の家に引き取られた遠縁の侍、良平。千代之助によると「どんぐりのような男」です。しかし真弓の父親はニートの千代之助よりも見た目は悪くとも立派な侍の半沢と真弓を結婚させるつもりで、すでに式の日程も決まっています。

「真弓殿の唇は、よく熟れた茱萸のようで、唇の紅さが、そのまま小菊の上へ写りそうでならない。一寸ちょっと拝見――」
「あれ、千代之助助様、私は口紅は付けては居りません」
「それは言うまでもない。真弓殿の唇より紅い口紅が何処どこの世界にあろう」

出典:野村胡堂 百唇の譜

そんなとき、真弓は唇を褒められたあげく、口紅を塗って紙に押し当ててほしいと頼まれます。
人妻となる真弓との思い出に、キスマークをつけた紙がほしいのだと好きな男性に言われて、真弓は口紅をつけていうとおりにします。

すると、目の前で千代之助がその紙に間接キスを……!

あなたが一番タイプの男性を想像してみてください。
その男性が、あなたのキスマークがついた紙に自分の唇を押し当てているところを。
他の男の妻となる自分に遠慮して、直接触れてこない彼に、あなたの恋心はどんどんふくらんでいきます。

経済力が何? 喧嘩が弱いから何? 彼は格好良くて優しくて、私のことを一番に考えてくれてるじゃない。親の決めた相手よりも、子供の頃から好きだった彼と結婚するのが、私の幸せじゃないの?

夢中で唇を寄せ合う二人。

そこへ刀を手に乱入する良平。
いきなり千代之助に斬りかかります。逃げまどう千代之助をかばって、真弓は良平の前に立ちふさがります。そのすきに、千代之助は良平は斬りかかり大けがを負わせます。
しかしその場に良平よりも腕の立つ真弓の父親(三也)がかけつけます。それを見て、千代之助はあわてて逃げ出します。

良平のひたぶるに娘を慕うた心を見ると、三也もさすがに心が鈍ります。遂には娘の真弓を土蔵の中に押し込んで、半沢良平が継ぐ可べき家も無いのを幸い、手続きも漏れなく踏んで、自分の跡目相続人に直し、二百五十石の高祿を譲って、自分は綺麗に身を退いて仕舞いました。

出典:野村胡堂 百唇の譜

父親は、娘が浮気をしたために婚約者である良平が怪我を負ったことの責任を感じ、結婚を急かしますが、真弓は承諾しません。そのため娘を殺してわびようとしますが、良平は真弓を愛しているために、「むしろ、それだけはやめてください」と懇願してきます。

そこで父親は娘のわびがわりに、良平に家督も財産も譲ってしまいます。つまり真弓の家はもう良平のもの。この先、そこで暮らすには真弓は良平と結婚する以外に方法がありません。

この話、今でもわりとよくある話です。

結婚前に娘が浮気。現場を押さえて修羅場になったのに、まだ逃げた浮気相手が好きな娘。そんな娘の慰謝料に家を明け渡す父親と、そんな女性とまだ結婚したがっている男。

もし良平の身内なら「女は顔じゃないよ。やめときなよ」と諭してしまいそうです。

さてこの話、最初は真弓と千代之助を応援していた読者は、だんだんと良平の味方に変わっていきます。
それは千代之助が転落していくせいです。

あらゆる階級の、あらゆる年頃の、あらゆる女を、次から次へと漁って五年七年の後には、真弓も良平も何も彼かも前生涯を忘れてしまって居りました。

出典:野村胡堂 百唇の譜

あの後、千代之助は唯一の武器である顔を使い、役者になり、さらに女あそびを繰り返します。あれから5年以上がたち、ニートからヒモにレベルアップしました。
ただ千代之助には夢がありました。
そう、自分に落ちた女たち100人分の唇の形を集めるという夢が。

99人分たまり、いよいよ記念すべき100人目となるとき、美しい尼を目にします。

千代之助はフト立ち止りました。
すれ違った女、それも墨染の法衣を着た若い尼法師の美しさに驚いたのです。
頭こそ青々と丸めて居りますが、柔かい眉の曲線カーブ、黒い滴したたる瞳、真珠色に少し紅味のさした頬――いやいやそれは物の数でもありません。千代之助の心を犇と捕えたのは、尼法師の紅い唇――茱萸のように丸くて、茱萸のように艶やかな唇だったのです。

出典:野村胡堂 百唇の譜

そこで千代之助はふらりと彼女をおいかけ、尼なんてやめるように口説きます。

「何んと仰おっしゃるか貴女あなたのお名前は知りませんが――もう一度髪を延して、此世の歓楽を見尽す為に私と一緒に世の中へ踏み出して参りましょう――」

出典:野村胡堂 百唇の譜

すると尼は千代之助に口説き落とされて、尼から一人の女性に戻ると約束します。
それを聞いて、千代之助は「約束の印に」と紙を差し出して、唇の形を押すように求めます。

尼は承諾し、笥に近づきました。

尼の逆手に握った剃刀かみそりは、ハッと思う間もなく、薄手乍ら千代之助の喉笛を斬ってしまったのです。
「何をする」
「お待ち、私は紅が欲しかったんだ」
尼は投げ出した「百唇の譜」を拾って流るる千代之助の血潮を唇に塗ると、帳面の最後の紙へ茱萸のような二つの唇は、正に紅々と百枚目の紙に印されたのでした。

出典:野村胡堂 百唇の譜
「キスマークがほしいか? つけてやるよ、お前の血でな!」
後の「マシンガン・シスター」かと思うような急展開ですが、これには理由があります。

そう、彼女の名前は真弓。
良平に対する贖罪と、千代之助に対する憎しみから尼になった復讐の女。

この辺りで「そういえば作者は銭形平次の人だった」と思い出します。

しかし千代之助の方がずっと、真弓よりうわ手でした。

「さア、来いよ真弓、俺は生れてから一度も同じ女を振り返った事は無いが、今度という今度は妙にお前に心が牽ひかれる。幸い傷は浅い、二人一緒に暮してどんな事があっても一生離れないよう――」

出典:野村胡堂 百唇の譜

メンタル強い。
このハガネメンタルを前に、復讐の女・真弓はたじたじになります。
首から血がだくだく流れてるのに、この余裕。
とても元箱入り娘には太刀打ちできません。
結局真弓は、千代之助に押し倒されてしまいます。
そこに!!

「曲者くせものッ、何をする」
真弓を組敷く千代之助の肩先を掴んで、庭先に叩き附けざま浴せた一刀、
「わっ」
美しい悪魔千代之助は、ものの見事に引っくり返りました。
「良平様」
「真弓殿、無事であったか」
二人は、それっきり言葉もなく、犇とばかりに手を取り合うばかりです。

出典:野村胡堂 百唇の譜

この絶妙のタイミングはストーカーでもしていないとなかなか難しいんじゃないのか、という疑問はさておき、格好良く登場した良平に救われた真弓は、とうとう彼に身を任せて、結婚を決めます。

さてこの話を良平の立場にたって見てみましょう。

1 雇い主に婿にならないかと誘われる
(良平の心理)相手の子、すごい美人!大好き!

2 顔が良いだけのクズと浮気される
(良平の心理)男が悪い!

3 クズがいなくなってからも、クズのことを想って結婚しないため、父親から座敷牢に閉じこめられる真弓
(良平の心理)真弓殿、かわいそう!

4 真弓が尼になる
(良平の心理)真弓殿は苦しんでるもんね、庵建ててあげるね!

5 真弓が千代之助と一緒にいる
(良平の心理)クズ、殺す!

もし良平が従弟なら、お姉ちゃんは気が気じゃありません。
恋が盲目すぎる。

では今度はこの話を千代之助の方から見てみましよう。

1 幼なじみの親戚のかわいい女の子がもうすぐ結婚する
(千代之助の心理)人の物になる前にちょっと味見したい♪

2 良平と修羅場になる
(千代之助の心理)マジ無理!!

3 美人の尼をみつける
(千代之助の心理)100人目発見!尼でも口説けばなんとかなるっしょ!

4 尼に首を切られる
(千代之助の心理)意味わかんない、なんで?

5 尼の正体が真弓だとわかる
(千代之助の心理)じゃあ尼になったのって、俺のことが忘れられなかったからじゃん。つきあう?

千代之助が従弟でも、お姉ちゃんは気が気じゃありません。
ちなみにこの三人、親戚関係です。
おそらく胃を痛めている従妹のお姉ちゃんはきっといるはず。

さて、最初の方で「浮気をした娘と、慰謝料を払う父親」で現代でも違和感がないと言いましたよね。
この話で現代に通じる男心は、浮気をされた男がどう女を許すかです。

良平は何故真弓をあっさりと許したのか。あまつさえ同情している節すらあるのは、それは真弓が美女だったからだけでなく、浮気相手の千代之助が徹底的なクズだからです。

男は基本的に、女の浮気は女を責めます。
女の場合は、男の浮気で相手の女を責めます。

これをうち破るには、彼女は「浮気相手の男に騙されたのだ」、という状況が必要になります。

そう、真弓は千代之助があまりにもクズだったため、許されたのです。

芸能界でもありますよね。

1 彼氏なんていないと公言していたアイドルに実は彼氏がいたというスキャンダルがでる
(ファンの心理)俺たちを裏切っていたなんて!

2 ネットでアイドル叩き等が始まる
(ファンの心理)当然の報いだ!

3 相手の男がろくでもない男だと分かる
(ファンの心理)もしかして、彼女は騙されてただけなのでは?

4 アイドルは反省し、しおらしくしている
(ファンの心理)よく考えたら、あんないい子が俺たちを裏切るわけがない!魔が差したか、騙されたんだ!

5 アイドルがにわかファンや芸能人なんかに叩かれているのを見る
(ファンの心理)許せない!彼女は悪くない!俺たちが守る!

この話、ずっと煮え切らなかった真弓と良平の仲は千代之助が出てくることで、決着します。
良平は真弓を救い出すこと、千代之助に一矢報いることで、長年の胸の支えもとれたのではないでしょうか。そして真弓も、救ってくれた良平に素直に身をまかせることができたのです。

この話からわかる男心は「浮気相手がクズすぎた場合、女がしおらしくしていれば男は女を許すことができる」です。

さて、この話は都合のいい偶然がおおすぎますよね。
千代之助は偶然100人目の美女を見つけ、良平は偶然庵で真弓を救います。

でもこれら偶然は全て簡単に説明がつきます。

どうしても良平と一緒になりたいという気持ちと、どうしても千代之助を許せない気持ちから真弓が仕組んだことだというのなら。

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