文学から探る男心 -太宰治「チャンス」-

文学から探る男心 -太宰治「チャンス」-


The love that lasts the longest is the love that is never returned


いつまでも続く愛とは、片想いのことだ

 サマセット・モーム

太宰治と聞いて「人間失格」とあの片頬をついている写真を思い出す方は多いでしょう。
重苦しくて暗い人間というイメージですよね。何度も心中未遂を繰り返して、最後は本当に自殺してしまった文豪。
夏休みの読書感想文で、「走れメロス」や「人間失格」を選んだ中学生が苦悩する時期が今年もやってきましたね。

それでもそのうち何人かはコアなファンになるという太宰先生ですが、実はけっこうユーモラスな作品も書いています。
さて、今回の作品は一言でいうと
恋愛とは非常に恥かしいものであると、太宰治がひたすら主張する話」です。

 
つまり私は恋愛の「愛」の字、「性的愛」の「愛」の字が、気がかりでならぬのである。「愛」の美名に依って、卑猥感を隠蔽せんとたくらんでいるのではなかろうかとさえ思われるのである。
 

出典:太宰治 チャンス

まず、辞書が「恋愛」の意味を「性的衝動に基づく男女間の愛情。すなわち、愛する異性と一体になろうとする特殊な性的愛。」といっていることに、太宰先生は噛みつきます。

 
「きれいなお月さまだわねえ。」なんて言って手を握り合い、夜の公園などを散歩している若い男女は、何もあれは「愛し」合っているのではない。胸中にあるものは、ただ「一体になろうとする特殊な性的煩悶」だけである。
 

出典:太宰治 チャンス

ついでに夏目漱石にも喧嘩を売ります。
※夏目漱石は「I love you」を「月がきれい」と訳したというエピソード(真偽不明)があります。

 
私がもし辞苑の編纂者だったならば、次のように定義するであろう。
「恋愛。好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの。すなわち、性慾衝動に基づく男女間の激情。具体的には、一個または数個の異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶。色慾の Warming-up とでも称すべきか。」
 

出典:太宰治 チャンス

「あなたと恋愛したい」という言葉が、太宰にかかると「あなたと合体したい」となるということです。あながち間違ってもいないですね。

 
「もののはずみ」とか「ひょんな事」とかいうのは、非常にいやらしいものである。それは皆、拙劣きわまる演技でしかない。稲妻。あー こわー なんて男にしがみつく、そのわざとらしさ、いやらしさ。よせやい、と言いたい。こわかったら、ひとりで俯伏したらいいじゃないか。しがみつかれた男もまた、へたくそな手つきで相手の肩を必要以上に強く抱いてしまって、こわいことない、だいじょぶ、など外人の日本語みたいなものを呟つぶやく。舌がもつれ、声がかすれているという情無い有様である。
 

出典:太宰治 チャンス

どうやら太宰先生はぶりっ子女子が嫌いなご様子。
しかし太宰先生の時代から「雷こわーい」「大丈夫ぼくがついてるよ」なんてやりとりが繰り広げられていたかと思うと、人間の進化が止まっているのではないかという疑念を抱いてしまいますね。
「触るな。怖いなら一人でうつ伏せてろ」と言っちゃう太宰先生。
どうです? 「暗くて繊細な人ってイメージとちょっと違うな」と思いませんか?

 
急停車のために私は隣りに立っている若い女性のほうによろめいた事があった。するとその女性は、けがらわしいとでもいうようなひどい嫌悪と侮蔑の眼つきで、いつまでも私を睨にらんでいた。たまりかねて私は、その女性の方に向き直り、まじめに、低い声で言ってやった。
「僕が何かあなたに猥褻な事でもしたのですか? 自惚れてはいけません。誰があなたみたいな女に、わざとしなだれかかるものですか。あなたご自身、性慾が強いから、そんなへんな気のまわし方をするのだと思います。」
 

出典:太宰治 チャンス

どうやら太宰先生は自意識過剰女子も嫌いなご様子。
先生がなぜこのエピソードを紹介したかというと、こういうふとしたきっかけで恋に落ちることはないと言いたいからです。
つまり、恋のチャンスなんて初めからそのつもりで虎視眈々と両方が狙っていなければ起こりえないことで、片方にその気がなければチャンスなんて実を結びはしないのだということ。
だからそういう出来事を、「運命」なんてまるで神様が取り仕切っているように言うなよ、と言いたいわけです。

そう言い切った後で、太宰先生は読者を気にしてこんな弁解をします。

 
私は決してイムポテンツでもないし、また、そんな、振られどおしの哀あわれな男でも無いつもりでいる。
 

出典:太宰治 チャンス

確かに太宰先生はもてました。一緒に心中してくれる女性が何人もいたほど。

そんな太宰先生は恋愛はチャンスがあっても、片方にその気がなければ発展しないという好例として、他にもエピソードを紹介しています。

 
「おや、そうですか。いやに固苦しいのね。あなたはこれまで芸者遊びをした事なんかあるの?」
「これからやろうと思っている。」
「そんなら、あたしを呼んでね、あたしの名はね、おしのというのよ。忘れないようにね。」
 

出典:太宰治 チャンス

冬のある夜、そんな風に芸者に話しかけられた太宰先生。
この芸者というのが

 
すらりとしたからだつきで、細面の古風な美人型のひとであった。としは、二十二、三くらいであったろうか。あとで聞いた事だが、その弘前の或る有力者のお妾めかけで、まあ、当時は一流のねえさんであったようである
 

出典:太宰治 チャンス

という美人。
そんな美人に誘われて、彼女のお店へ。そこで彼女は同僚の前でこう言います。

 
「あたしは、こんどは、このひとを好きになる事にしましたから、そのつもりでいて下さい。」
 

出典:太宰治 チャンス

会ったばかりの美人にそういわれて、普通の男ならばなんらかの反応があるもの。
しかも同僚は、必死に彼女をいさめようとしています。
何せ当時の太宰はただの学生です。
恋愛小説ならば、周囲に反対されて燃え上がる二人、という展開ですが太宰先生は違います。

そのとき、太宰先生は雀焼きに夢中でした。
どれだけ夢中かというと、芸者の外見描写が上記だけなのに対して、雀焼きの描写は……。

 
しかし、私の思いは、ただ一点に向って凝結されていたのである。炬燵の上にはお料理のお膳が載せられてある。そのお膳の一隅に、雀焼の皿がある。私はその雀焼きが食いたくてならぬのだ。頃しも季節は大寒である。大寒の雀の肉には、こってりと油が乗っていて最もおいしいのである。寒雀と言って、この大寒の雀は、津軽の童児の人気者で、罠やら何やらさまざまの仕掛けをしてこの人気者をひっとらえては、塩焼きにして骨ごとたべるのである。ラムネの玉くらいの小さい頭も全部ばりばり噛みくだいてたべるのである。頭の中の味噌はまた素敵においしいという事になっていた。甚だ野蛮な事には違いないが、その独特の味覚の魅力に打ち勝つ事が出来ず、私なども子供の頃には、やはりこの寒雀を追いまわしたものだ。
 

出典:太宰治 チャンス

長い。
しかし女達が恋の話で言い合っている中、一人でばりばり鳥をむさぼり食べるわけにもいかず、太宰先生はもくもくと銀杏を食べます。頭の中は目の前の雀焼きでいっぱいです。
筆者は雀焼きを食べたことがありませんが、太宰先生が描写するとなんとなくおいしそうです。
ただ、おそらく姿焼きだろうと思うと、手羽先すら食べられない筆者は一生食べることがない気がしますが。

 
既に私はそのお膳の一隅に雀焼きを発見し、や、寒雀! と内心ひそかに狂喜したのである。
たべたかった。
 

出典:太宰治 チャンス

まだ続いてる、雀焼きの話。
もうさっさと食えよ、とその場にいたら言ってしまいそう。

太宰先生はここで妙案を思いつきます。
一度「帰る」と言って席を立った後で「わすれもの」と言って誰もいない部屋に戻り、雀焼きを二羽掴んで懐に入れます。
誰にも気づかれず、ご満悦の太宰先生。すると、芸者が家まで送ると口にします。
しかし一緒に下宿先に行くと、夜遊びをしている太宰先生を懲らしめるために、家主がカギを占めて入れなくしていたのです。困った太宰先生に、芸者は自分のなじみの宿を紹介します。

太宰先生が布団に入ってようやく雀焼きを食べようとしたとき、芸者が「鼻緒がきれちゃった」と言って戻ってきます。

現代では「終電、乗り遅れちゃった」に形を変えて受け継がれていますね。

 
これはいけない、と私は枕元まくらもとの雀焼きを掛蒲団の下にかくした。
お篠は部屋へはいって来て、私の枕元にきちんと坐り、何だか、いろいろ話しかける。私は眠そうな声で、いい加減の返辞をしている。掛蒲団の下には雀焼きがある。
 

出典:太宰治 チャンス

この話のヒロインはおそらく雀焼きに違いないと、読者が思い始めたところで芸者が言います。

 
「あたしを、いやなの。」
私はそれに対してこう答えた。
「いやじゃないけど、ねむくって。」
「そう。それじゃまたね。」
「ああ、おやすみ。」と私のほうから言った。
「おやすみなさい。」
とお篠も言って、やっと立ち上った。
 

出典:太宰治 チャンス

芸者もまさか布団の中に雀焼きがあるとは思わないでしょうね。

 
これが即ち、恋はチャンスに依らぬものだ、一夜のうちに「妙な縁」やら「ふとした事」やら「もののはずみ」やらが三つも四つも重って起っても、或る強固な意志のために、一向に恋愛が成立しないという事の例証である。
 

出典:太宰治 チャンス

強固な意志って、「雀焼き食いたい」ってやつだろ、と突っ込みたくなってしまいますが、太宰先生はきれいにまとめています。

 
恋愛チャンス説は、淫乱に近い。それではもう一つの、何のチャンスも無かったのに、十年間の恋をし続け得た経験とはどんなものであるかと読者にたずねられたならば、私は次のように答えるであろう。それは、片恋というものであって、そうして、片恋というものこそ常に恋の最高の姿である。
 

出典:太宰治 チャンス(http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/244_20157.html)

片恋なんてこの話の中で語ってましたっけ? 記憶にないな。

この話の教訓を、太宰先生は「恋愛に限らず、人生すべてチャンスに乗ずるのは、げびた事である。」と語っていますが、筆者がこの作品から得た男心の教訓は違います。

「男性は、好物と性欲ならば、好物を優先する」

文学から探る男心 -伊藤左千夫「野菊の墓」-
文学から探る男心 -永井荷風「男ごゝろ」-