文学から探る男心 -永井荷風「男ごゝろ」-

文学から探る男心 -永井荷風「男ごゝろ」-


Men always want to be a woman’s first love. That is theri clumsy vanity. We woman have a more subtle instinct about things. What we like is to be a man’s last romance.


男はくだらない虚栄心から、女にとっての最初の相手になりたがる。女は繊細な本能から、男にとっての最後の恋人になりたがる。

 オスカー・ワイルド

 

「幸福の王子」を執筆したオスカー・ワイルドの名言ですが、この名言を知らなくてもこのことを経験則から知っている方も多いのではないでしょうか。

恋愛の考え方は男女で大きく違います。
「女心と秋の空」なんてことわざがありますよね。
女心は秋の空のようにころころ変わるという意味ですが、私たち女性からしたら、男性の気持ちだってころころ変わっているように思えます。

あんなに情熱的に口説いてきたくせに、気づけば他の子に夢中だったり。

そんな男心のうつりかわりがよくわかるのが、永井荷風の「男ごゝろ」です。
まさしくなタイトルですね。
永井荷風は明治に生まれ、半世紀以上前に亡くなった小説家です。
ですがその小説には、今も共感できるものが数多くあります。

 
「公然結婚の約束をしてしまへば誰が何と言はうと構ふことは無いんですからね、わたし、ほんとに早くさうなりたいと思ひますよ。ねえ。あなた。」
男は何も言はず、片足を立てゝ靴足袋をはく女の様子を眺めながら、静にシヤツの襟のネクタイを結び初めた。
 

出典:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)

「結婚が決まってたら、誰に何をいわれても全然気にならないけどね。早くそうなりたいなぁ。ねぇ、聞いてるの?」
今頃、世界中のどこかで似たような会話がなされているのではないでしょうか。
ベッドを共にした後で、結婚をにおわせる女性と、聞かないふりをする男性。
こんなシーンから、小説ははじまります。

この二人、最初は男性の方が女性に夢中でした。

男性(友田)は34歳。社長の親類で会社の古株です。そこに新しく入ってきた24,5歳の童顔の女性(民子)。隙あらば手を握ろうと考えたり、こっそり帰り道をつけてみたり。一月後、偶然映画館の前で会い、男性は女性のチケットを買うと一緒に映画を見ようと誘う。

あるあるあるある、とうなずいてしまう展開です。

しかし映画を終えた後で、男性は食事に誘いますが、断られてしまいます。しかしそこでめげずに、「じゃあ次の日曜日は一緒に食事をしようよ。約束ね」とうまくデートを取り付けます。
ガツガツしていると思いきや、男性は会社ではまるで何事もなかったように接してきます。

そう、男性が勝負をかけるのは会社が終わってからです。さっそく待ち伏せして女性に「聞いてほしい話がある」と持ちかけます。

 
「初めてお目にかゝつた其時からです。僕はあなたが好きで好きでたまらなくなつてしまつたのです。」
 

出典:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)

女性の手を握り、真剣に告白する。初めて会った時から好きだったという上司に、女性は戸惑います。

このスムーズな揺さぶりは、さすが30代です。
映画館でのちゃらいガツガツした態度から、会社の素っ気ない態度、そしてここに来て真摯な告白。友田はできる男です。
友田はここで返事を無理強いせずに、女性を泳がせます。
そう、事前にデートの約束は取り付けていますから、決着をつけるのは日曜日です。

決戦の日曜日、飲食店の個室に入った途端に友田は民子に迫ります。
先手必勝。しかもここは友田のフィールドです。
ちゃらい友田、素っ気ない友田、真摯な友田。
そして最終形態情熱的な友田で強引に迫ります。

 
「許して下さい。いゝでせう。今日は。今日は。」と言ひながら身悶えする女を其場に押倒した。
かうなつてはどうする事もできないと見え、女は乱れた裾前もそのまゝ、
「あなた、乱暴ね。ひどいわ、ひどいわ。」それも小声で言ふばかり。
 

出典:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)

じつは友田、土曜日に「女の子に警戒されずに連れ込める、一見そういう店っぽくない個室がある飲食店」というのをリサーチしています。下見も済ませてます。
友田に死角はありません。
しかし、こうして民子を手に入れたものの、友田の気持ちはすぐに変わってしまいます。

 
女の言ふこと、為すことはきまり切つてしまつて、初の中催したやうな刺戟も昂奮をも感じさせないので、遂には連込の席料を払ふことさへ次第に惜しくなるばかり。
 

出典:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)

こっそり帰り道をつけたり、偶然映画館で出会ったときの気持ちは、本当に「好きで好きでたまらなかった」のかもしれません。
しかし一度手に入れてしまってからは、今でいうラブホテル代さえ払いたくない気分になった友田。
そんなときに結婚をにおわせられて、ますます民子に嫌気がさしてしまった友田は、転勤を受け入れあっさりと引っ越してしまいます。

いるいるいるいる、と過去の友人たちとの恋愛話をつい回想していまいたくなる展開です。

この小説のあらすじを一行でまとめると、
「社長の身内が、新人の女の子に強引に手を出した挙句、面倒になって転勤して逃げた」
となります。しかしここから先が女性にはよくわからない男心です。

半年後、友田は同僚から民子の近況を聞かされます。

 
「さう云へばあの人……君の机の筋向にゐた貝原民子さん。」
「うむ。民子さん。小柄の人でしたね。どうかしましたか。」
「近々結婚するさうです。」
「あの人が結婚をする……」
「会社へ来る前働いてゐた商店の人と、急に話がきまつて結婚するんださうです。」
「さうですか。さうですか。それは目出たい話ですな。」
友田は載せた雑誌の落るのもかまはず片手で其膝を叩き、さも可笑しさうに声まで出して大きく笑つた。
 

出典:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)

友田はこの話を聞いたとき、寂しさを感じたのかもしれませんし、女の子の相手に嫉妬したのかもしれません。
会社の同僚が、それも「小柄な人」としか覚えていない相手が結婚したと知っても、膝を叩いて声をあげて笑ったりしませんよね。この行動は逆に怪しまれそうですが、それがわからないほど友田は自分の感情を隠すことに夢中だったでしょう。
本当に隠したい相手は、同僚ではなく自分自身だったのかもしれません。彼女への未練を認めたくないというくだらない虚栄心が、この行動に繋がったのではないでしょうか。
自分から捨てたくせに、未練があるなんて、女性にはよくわからない心理ですよね。

さて、蛇足ですがこの小説の中で、民子は友田と別れた半年後にはもう結婚を決めています。
「友田に捨てられた傷心の民子を、かつての同僚が慰めてるうちに結婚まで発展した」と想像することもできますが、「友田と同時進行でかつての同僚ともつきあっていた」と考えることもできます。その場合、民子はどちらにも結婚をにおわせていたのではないでしょうか。
そこで冒頭に記載したオスカー・ワイルドの名言ですが、女は本当に繊細な本能から“男の最後の恋人になりたがる”のでしょうか。
「繊細」という意味を持つ「subtle」には「巧妙な」とか「狡い」という意味もあります。繊細と狡さと巧妙さが介在しているなんて、まさしく女心を表すのにふさわしい単語だと思いませんか。