『密会・セレブと呼ばれた女―栄光と欲望の裏側―』<プロローグ>

『密会・セレブと呼ばれた女―栄光と欲望の裏側―』<プロローグ>

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いつもと変わらない日常が、突然変わってしまうことがある。

たとえば、なにげない同じ週末。これから金曜の夜を楽しもうとしていた、そんな時に―――。

desk

???
「吉岡さん、おつかれさま」

 

夕方のオフィスで声をかけられた。そろそろ仕事が終わる頃。

見なくてもわかる。声の主は、派遣社員の私を担当してくれている社員さんだ。

 

社員
「そろそろ時間なんで、タイムシートを書いておいてください。サインしますから」

 

毎日、定時に近くなると、こんな風に声をかけてくれる。

 

社員
「そういえば、吉岡さんの契約って、今日まででしたよね」

社員
「それじゃ、契約満了の書類にもサインしてもらえますか?」

 

言葉と同時に書類が差し出される。これにサインをすれば、3カ月の契約は終了。

今日でこの会社ともさようならということになる。

 

紗希
「いろいろとありがとうございました。お世話になりました」

 

形式通りの挨拶をして席を立つ。簡単な送別会でも……と言われたのを丁寧に断った。

 

紗希
(週末と月末が重なった金曜日に送別会なんて、かえって気を遣っちゃうし)

 

派遣社員として勤めた3か月。この会社はそれなりに居心地がよかった。

 

紗希
(あっさりさようならって、少し寂しい気もするけど、派遣社員ってそういうものだし……)

紗希
「短い間でしたが、お世話になりました。どうもありがとうございました」

 

オフィスを出る間際、まだ仕事をしている人たちに向って頭を下げる。

そして、私は週末の街へと歩き出した。


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派遣社員として働き始めて1年と少し。

派遣。いろいろ言われているけれど、今の私はこれでいいと思っている。

 

紗希
(オンオフがはっきりしているし、よけいな残業もしなくていいし……)

 

夕方6時のオフィス街はまだ宵の口。1週間分の疲れを忘れさせるような、週末の賑わいにあふれている。

 

紗希
(週末だし、どこか寄って行こうかな)

 

何軒か、気になっていたショップを思い浮かべる。

駅に向かう人の流れに乗って、ぶらぶら歩きながら携帯を取り出した。

 

紗希
(その前に、派遣会社に連絡しておかないと)

 

歩きながら思った時、手の中で携帯が鳴り出した。

表示画面は『キャリア・ワークス』。私が登録している派遣会社の名前だ。

 

紗希
「……はい、吉岡です」

???
『ああ、吉岡さんですか? 今、電話は大丈夫でしょうか?』

 

電話の声は佐倉さん。派遣会社の担当だ。

 

佐倉
『今日が契約満了日でしたよね。書類はもらって来てもらえました?』

 

キャリア・ワークスは小さな派遣会社だけれど、その分、きめ細かくフォローしてくれる。

大丈夫ですと答えると、佐倉さんが電話の向こうで微笑む気配がした。

 

佐倉
『そうですか。じゃあ……。さっそくなんですが、次の仕事の話なんですけど』

佐倉
『できたら、これから事務所に寄ってもらえませんか? あ、でも今日は金曜日ですし……』

佐倉
『もし予定があるようでしたら来週の月曜でもかまいませんけど』

紗希
(どうしよう。まだ今夜の予定は決めてないけど、せっかくの週末だし……)

紗希
(でも、来週また出直すのも億劫といえば億劫だし……)

 

そう考えた私はその足で事務所に寄ることにした。

その選択が、それまでの平和な日常に、大きな影を落とすとも知らずに―――。


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事務所では、佐倉さんが待っていてくれた。

 

佐倉
「吉岡さん。お疲れさまでした。急に来てもらってすみません」

 

佐倉さんが、にこにこしながら話しかけてくる。やさしそうな目元が笑うとさらに細くなった。

 

佐倉
「派遣先からもさっき電話がありました」

佐倉
「吉岡さんはすごくよく勤めてくれたって、褒めていただきましたよ」

紗希
「そうですか。よかったです。それで、次のお仕事って何ですか?」

佐倉
「単発1日のお仕事なんですが……」

 

佐倉さんの話では、午後から始まる講演会の受付、ということらしい。

 

佐倉
「時間も4時間と短いんですが、時給がけっこういいんですよ」

 

提示された時給は、普通の事務職のほぼ倍だった。

 

佐倉
「お仕事の内容は、来場者からチケットをもらって、パンフレットを渡す……ということだそうです」

紗希
「じゃあ、当日は直接この会場に行けばいいですか?」

佐倉
「現地に担当者がいますので、わかるようにしておきます。じゃあ、来週、よろしくお願いしますね」

 

初めて会った時から変わらない、親しみやすい笑顔。ちょっと照れくさくて、頭を下げて事務所を出た。

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外に出ると、あたりはもうすっかり暗くなっている。

 

紗希
(これから、どうしようかな)

 

食事をして帰ろうか、家でのんびりしようか……。どちらにしても、週末の夜はまだ始まったばかり。

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わくわくした気分で交差点に差しかかると、少し先を、おばあさんがゆっくりと歩いている。

 

紗希
(信号も青だし、今のうちに渡っちゃおう……!)

 

そう思った時、視界の隅にヘッドライトが反射した。

 

紗希
(……えっ!?)

 

ハッとして顔を向けると、こっちに向かって車が突っ込んでくる。

耳を引き裂くようなブレーキ音。私は思わず目をつぶった。

……どんっ!

重く鈍い音。ドキッと心臓が跳ねあがる。

 

紗希
(今の……何の音!? まさか……)


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おそるおそる目を開けると、横断歩道に人が倒れていた。

 

紗希
(嘘……あれは……さっき歩いていた……おばあさん!?)

 

倒れている人影は、妙に小さくて作り物めいてみえる。

想定外の事態を目の当たりにしたとき、人は現実感を失うことで心のバランスを保とうとするらしい。

 

紗希
(こんな時、どうしたらいいの? 救急車? それとも……)

 

携帯を握りしめたまま、呆然と立ち尽くすしかない私を、周囲のざわめきが包んだ。

sonobebill_soto_yoru

???
「あなたが第一発見者だそうだが?」

 

知らない男の人が顔を覗き込んでいる。

 

刑事
「俺は所轄の捜査課、瀧山だ。ちょっと話を聞かせてもらえないか」

紗希
(捜査課の……刑事さん?)

 

突き出された警察手帳から視線を横にずらすと、道路にはヒト型のチョークのあと。

周囲には黄色いテープが張られ、数字を書いた札があちこちに置かれている。

その周りには事故現場を遠巻きにした人たち。

 

やじ馬1
「信号無視で突っ込んで来た車に轢かれたんだって?」

やじ馬2
「ひき逃げだってさ。ひでえことするよなぁ」

やじ馬3
「横断歩道の信号は青だったんでしょ? 怖いわよねぇ……」

 

ざわめく声に状況がわかってくる。

 

紗希
(ひき逃げ……。じゃあ、あの時の車が……)

瀧山刑事
「ヒガイシャは67歳の女性。道路を横断中に車にはねられた」

瀧山刑事
「その現場を目撃していたようだと聞いたんだが?」

紗希
「え、と……」

瀧山刑事
「……たった今、連絡が入った。被害者は搬送先の病院で亡くなったそうだ」

紗希
「……嘘」

紗希
(私が見た時は、ふつうに歩いていたあの人が……亡くなった、なんて……)

瀧山刑事
「あなたがずっとここにいたみたいだって、通報者が証言しているんだ」

瀧山刑事
「事故を起こした車両を見ていないか?」

紗希
(事故を起こしたクルマ……あれは……)

 

ヘッドライトとともに突っ込んで来た車を思い出す。

 

紗希
「普通の、乗用車だったと思います」

瀧山刑事
「色は?」

紗希
(黒っぽい車だったと思うけど……)

紗希
「黒……みたいでした」

瀧山刑事
「本当に黒だったか? 紺とか、メタリックだった可能性は?」

紗希
「ええと……」

 

そう言われると自信がなくなってしまう。

 

紗希
「……すみません。ヘッドライトが反射してて……それに、とっさに目をつむってしまったので」

瀧山刑事
「……そうか。じゃあ運転していた人間も見ていない……と?」

紗希
「……すみません」

瀧山刑事
「つまり手掛かりは、黒っぽい乗用車だったということだけか」

 

瀧山と名乗った刑事さんがかすかにため息をついた時。

人混みをかきわけるようにして見慣れた顔が近づいてきた。


佐倉
「吉岡さん、大丈夫ですか?」

紗希
「佐倉さん!」

瀧山刑事
「おい、勝手に入って来ないでくれ。誰だ、勝手に入れたのは!」

 

刑事さんが顔をしかめるのもかまわず、佐倉さんは私と刑事さんの間に割って入ってくる。

 

佐倉
「彼女はうちの社員で、ちょうど事務所を出たところでした。私も一緒に話を伺います」

 

有無を言わせない強い口調に、驚いてその顔を見つめる。

 

紗希
(こんな険しい顔の佐倉さん、初めて見た気がする)

紗希
(もしかして、心配して来てくれたとか……?)

瀧山刑事
「それなら邪魔はしないでくれ。今、事故当時の話を聞いていたんだ」

瀧山刑事
「人がひとり亡くなってる。目撃者の証言だって大切な手掛かりだからな」

紗希
「すみません。それなのに私、ちゃんと見ていなくて……」

瀧山刑事
「本当に何も見てないのか? 気づいたことや不審な点は? 何でもいい、思い出してくれ」

 

矢継ぎ早に尋ねられて、何を話せばいいのかわからなくなる。

 

紗希
「ブレーキが聞こえたと思って目を開けたら、おばあさんが倒れていて……」

佐倉
「…………」

紗希
「そっちに気を取られている間に、車は走って行ってしまったみたいで……」

 

それ以上、話せることは何もなかった。

 

佐倉
「もういいですか? 彼女も混乱していると思いますし」

 

佐倉さんの手が私の肩に触れる。その手に、急に現実感が戻ってきた。

 

紗希
「佐倉さん……仕事中なのに、すみません」

佐倉
「いや、窓からもパトカーのサイレンが見えましたから。もっと早く降りてくればよかった」

 

佐倉さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。その時、刑事さんが息をつくのがわかった。

 

瀧山刑事
「……わかった。だが、日本の警察は優秀だ。犯人は絶対に逃がさない。必ず捕まえてみせる」

瀧山刑事
「そのためにも、何か思い出したらすぐに連絡してほしい」

瀧山刑事
「俺は捜査課の瀧山だ。連絡先は……」

 

そう言うと、刑事さんが名刺を差し出す。すかさず、佐倉さんも名刺を取り出した。

 

佐倉
「では刑事さんも、また何かありましたらこちらにご連絡下さい」

瀧山刑事
「人材派遣会社の佐倉さん、か。わかった」

 

刑事さんは佐倉さんの名刺を受け取ると、現場検証を続けている鑑識の方へと歩いて行った。

 

佐倉
「吉岡さん、大変でしたね。大丈夫ですか?」

紗希
「……はい。突然のことで混乱してしまって」

佐倉
「事務所に戻ってお茶でも飲んで行きますか? 少し落ち着いてから帰った方がいいでしょう」

 

話しながら、もと来た道を戻りかけた時、ふいに声をかけられた。


???
「すみません、ちょっといいっすか?」

 

振り返ると知らない男の人が立っている。

 

???
「あんたが第一発見者ってホント? ちょっと話を聞かせてもらいたいんだけど」

紗希
(何? この人……妙に馴れ馴れしいけど……)

 

私がとまどっている間にも、佐倉さんが庇うように答えてくれる。

 

佐倉
「キミは? 一体、何の用かな?」

真野
「ああ、俺? 俺は……カメラマンの真野康平って言うんだけど」

真野
「さっきの事故、見てたんだって? ちょっと話、聞かせてもらえないかな」

 

間に入ってくれた佐倉さんにも、彼は軽い口調を崩さない。

 

佐倉
「話? さっきの刑事さんにも話したけど、彼女は車が走って来たことしか覚えてないんだ」

真野
「ふーん。運転手の顔は? 見てないのか?」

 

私は黙って首を振る。

 

真野
「そっか。ただのひき逃げじゃ記事にならねえし……」

真野
「あーあ、有名人でも乗ってれば別だけど、そんなにうまくはいかねえか」

佐倉
「キミ、そういう言い方は不謹慎じゃないか?」

真野
「それが俺の仕事なんだからしょうがねえだろ」

真野
「でもまぁ、確かに軽率だったな。気分を悪くしたなら悪かった」

 

素直に謝る様子に、佐倉さんが困った顔をする。

 

佐倉
「じゃあもういいだろう? 吉岡さん、行きましょう」

 

佐倉さんが私の背中をそっと押す。歩き出そうとした時、カメラマンだというその人が私をじっと見つめた。

 

真野
「俺は、別にいいけど……」

紗希
(え……なんだろう?)

真野
「あんた、それ……」

 

彼の指先が私の方へと伸ばされる。

 

紗希
(……え?)

 

すると彼は、屈んで私の膝に指先をおいた。

 

真野
「ここ、破れてるけど」

紗希
「………っ!?」

 

指先が、私の破れてしまったストッキングに触れる。

 

紗希
(いつの間に……どこを見てたの!)

 

ハッとした瞬間、顔が赤くなるのがわかった。その相手がふっと笑う。

 

真野
「何かで隠して帰った方がいいぜ。あんたのそういうカッコ、けっこうセクシーだから」

真野
「交通事故の目撃者の次が、婦女暴行の被害者なんてシャレにならねえだろ」

佐倉
「キミ! なんてこと言うんだ!」

真野
「冗談だって。それくらい気をつけて帰んなってこと。じゃあな」

 

そう言い残すと、その人は野次馬の中に消えてしまった。

 

佐倉
「どうしますか、それ……」

紗希
「コンビニで買って、履き替えて帰ります」

 

驚きの上に驚きが重なると、少しは冷静になるらしい。

 

佐倉
「本当に大丈夫ですか?」

 

まだ心配そうな佐倉さんに頷いて、少し落ち着いた気分で歩き出す。

けれど、それまで平和だと思っていた私の日常は、この日を境に一変した。

人の欲望が作りだす偽りの幸福。その裏側にあるむなしい虚栄。

そのはざまに渦巻く嘘と破滅。その悲劇を目の当たりにするとも知らずに―――。


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週が明けて数日後の昼下がり。私は講演会が行われるイベントホールへやってきた。

週末から、今日ここへ来るまでの間、佐倉さんからは何度も電話が入っている。

 

佐倉
『吉岡さん、本当に大丈夫ですか? この前のこともあるし、無理はしないで下さいね』

佐倉
『もし精神的に負担なら、他の方にお願いすることもできますから』

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紗希
(いろいろ気づかってくれるのは嬉しいけど、仕事は仕事だし)

紗希
(何もしないで家にいるより、仕事をしていた方が、気もまぎれるしね)

 

そう思いながらロビーに入ると、中にはたくさんの花が飾られていた。

開店祝いや出演祝いに贈られる、名札のついたスタンド花もある。

 

紗希
(すごい……講演会って、もっと地味なものだと思ってたけど……え?)

 

『祝・加々美遥花さま』。その文字に驚いて、端から花の名札を確かめる。

 

紗希
(『加々美遥花さま』って、本当にあの加々美遥花?)

 

ミセスモデルとして雑誌やCMで活躍している、あの……。

驚いて、ロビーの中央で立ち尽くしていると、スタッフの女性が近づいてきた。

 

スタッフ
「もしかしてキャリア・ワークスの、ええと……」

紗希
「はい。吉岡紗希です。今日はよろしくお願いします」

スタッフ
「これが今日のプログラムです。読んでおいてくださいね」

 

差し出されたパンフレットを開く。

そこには顔写真入りで、モデル・加々美遥花のプロフィールが載っていた。

 

紗希
(やっぱりあの加々美遥花なんだ!)

 

まさか人気モデルの講演だとは思ってもみなかった私は、改めてパンフレットに目を落とす。

『モデル、加々美・遥花。32歳。ファッション雑誌の人気モデルを経て、数年前に実業家と結婚』

『現在はミセスモデルとして活躍するとともに、ジュエリー・カガミのイメージキャラクターを務めている―――』

そして、今日の講演のテーマは……。

『加々美遥花・特別講演―自分らしく、華やかに生きる―』

 

紗希
(華やかに生きる、かぁ……)

 

そのタイトルの下で、プロフィールの写真があでやかに微笑でいた。と、その時―――。


???
「あれ? もしかして、この前の……。襲われないでちゃんと帰ったみたいだな」

 

聞き覚えのある声に振り返る。そこに立っていたのは……!

 

紗希
「あなた……この前、事故の現場にいた……」

真野
「へえ、覚えててくれたんだ? 真野だよ、真野康平」

 

突然の再会にもかかわらず、相手は平然と笑っている。

 

紗希
「……どうしてここに?」

真野
「仕事だよ、シゴト。ま、ハッキリ言うと何かいいネタ落ちてないかなってな」

紗希
(ぜんぜん悪びれないんだ……)

真野
「そういうあんたは何やってんだ?」

紗希
「あんたあんたって、やめてもらえませんか」

 

さすがにカチンと来て、思わず口走ってしまう。

 

真野
「だって俺、あんたの名前、しらねーし」

紗希
「……吉岡……紗希、です」

真野
「紗希……ね。じゃあ紗希は何でここにいるんだよ」

紗希
(紗希……!?)

 

平気な顔で呼び捨てにされて、一瞬、言葉につまってしまう。

 

真野
「何だよ。 俺、なんか変なこと言ったか?」

紗希
「だって、いきなり呼び捨てなんて……」

真野
「細かいこと気にすんなよ。減るもんじゃあるまいし」

紗希
「………!」

紗希
(なんなの、この人……図々しい……)

 

胸にわく不快感。けれど、相手はそんなことお構いなしに話しかけてくる。

 

真野
「で? あんたはどうしてここにいるわけ?」

紗希
「……会社から派遣されて、受付の仕事をしに来たの」

真野
「会社? 加賀美遥花の関係者じゃなくて?」

紗希
「ただの派遣社員だけど。キャリア・ワークスって派遣会社で……」

真野
「なんだ、関係者じゃねえのか。もしかしたらと思ったんだけど……だったらいいや」

 

もし関係者だったら、どうだというんだろう。聞かなくても理由がわかる気がして、黙ってやり過ごす。

 

真野
「つーか、あそこの人、あんたのこと呼んでるみたいだけど。早く行った方がいいんじゃねえ?」

 

その声に振り返ると、スタッフの女性が腕時計を指している。

 

紗希
(いけない、もう時間だ!)

 

時刻は12:55。講演の受付時間がすぐそこまで迫っていた。

piano2

それから間もなくして、講演が始まった。

 

紗希
(遠くからそっと見るくらいならいいよね)

 

来場者がすべてホールに入った後、私もそっと会場を覗く。

 

紗希
(わぁ……本物だ!)

 

ステージの上には華やかなドレスを着た加々美遥香。そのあたりだけ、キラキラと輝いているようだった。

 

遥香
「私が今日、みなさんにお伝えしたいのは……女性はもっと自由であるべき、ということです」

 

ステージの上で、加々美遥香が艶然と微笑む。そのとたん会場から大きな拍手がわいた。

 

真野
「さっすがモデル。舞台映えするなぁ」

 

すぐそばで聞こえた声に驚いて振り返る。

 

紗希
「真野さん!? どうして……」

真野
「ん? 俺も一応、関係者ってことで」

 

持ち上げて見せた腕には『PRESS』の腕章があった。

 

真野
「しっかし客はみんな、女ばっかりだな。加々美遥香って、そんなに人気あるのか?」

紗希
「……そう思うけど」

 

真野さんの疑問に反して、会場は称賛のため息と拍手で盛り上がっている。

やがて話のテーマはファッションへと移って行った。

 

遥香
「やっぱりどんな時にも『装う』気持ちを忘れずにいたいですよね。だって私たち、女ですもの!」

 

あでやかだけどコケティッシュ。

明るくて親しみやすい加々美遥香の語り口に、会場は和やかな雰囲気に包まれている。

 

紗希
「やっぱりステキだと思うけど。きれいだし、かわいいし」

真野
「そんなもんか? 俺にはその良さが全然わかんねーけど」

 

華やかで、話もうまく、講演というよりトークショーのような雰囲気。

真野さんは鼻先でため息をついていたけれど、私はすっかり彼女の魅力に引き込まれていた。

 

紗希
(こんなに近くで見られて、今日は来てよかったな。なんだか得しちゃった!)

 

加賀美遥花の姿を目で追っているうちに、講演は大盛況のうちに終わりを告げた。


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講演後、ロビーに出ると、さっきより多くの人がつめかけていた。

 

紗希
(わ、すごい人……! お客さんじゃないみたいだけど、何があるんだろう?)

 

ロビーに並んだテレビカメラに驚いていると、真野さんが後ろから声をかけて来る。

 

真野
「今からここで記者会見だったよな」

紗希
(記者会見? そんなのあったっけ?)

 

真野さんの言葉にパンフレットを見返すと、確かに『関係者・質疑応答』と書いてあった。

 

真野
「ほら、来たみたいだぜ」

 

その声に振り向くと、関係者に囲まれて加々美遥香が現れた。

 

紗希
(わぁ……近くで見てもやっぱりきれい! すっごく細いし、肌も真っ白なんだ……)

 

間近で見る加々美遥香に目を奪われる。その周りを報道陣が取り囲んだ。

 

司会
「それではただ今より、会見を始めたいと思います」

 

司会の声に、次々とマイクが差し出される。

 

司会
「講演は大成功だったそうですが、今日は他にも特別な発表があるとか?」

 

レポーターが突き出したマイクに、彼女がにっこりとうなずく。

 

遥香
「現在、私はジュエリーカガミのイメージキャラクターを務めさせてもらっていますが」

遥香
「このたび新しく、ファッションブランドを立ち上げることになりました」

遥香
「新ブランドの名称は『ラ・プリマヴェーラ』」

記者1
「プリマヴェーラ……つまりイタリア語で『春』という意味ですね?」

遥香
「ええ。広くは『愛』という意味もあって、このブランドでは……」

遥香
「女性がもっと自由に、美しくなるための服をプロデュースしていきたいと思っています」

記者2
「ジュエリー・カガミの姉妹ブランドということになるんでしょうか?」

遥香
「そうですね。カガミのジュエリーも、もっとカジュアルに楽しんでもらえたらと思います」

司会
「それではここで、ジュエリー・カガミの社長であり……」

司会
「遥香さんのご主人でもある、加々美浩一氏に登場いただきましょう!」

 

司会の声に、スーツをきれいに着こなした男性が登場する。

 

紗希
「あれが、遥香さんの旦那さん……」

真野
「老舗ジュエリーブランドの若き3代目社長、加々美浩一だよ」

 

ステージを見つめている私に、真野さんが補足してくれた。

 

加々美
「本日はお忙しいところ、加々美遥香のイベントにお越し下さいまして、ありがとうございます」

 

遥香さんの隣に立った旦那さんがあいさつする。その顔はどこか誇らしげだ。

 

紗希
「いいなあ。あんなにきれいで、素敵な旦那さんがいて」

紗希
「しかも自由に自分の仕事をしてて……なんだか憧れちゃう」

真野
「ふーん、そんなもんか? 俺は全然、タイプじゃないけど」

紗希
「………?」

真野
「どっちかっていうとあんたの方が好み」

紗希
「……え?」

紗希
(今、なんて……?)

真野
「加賀美遥花なんて、所詮、作られたイメージだろ?」

真野
「仕事ったって、結局はダンナのお飾りだし。女ってあんなのに憧れるのか?」

 

呆れたような口調で真野さんが肩をすくめる。

 

紗希
「そんな言い方しなくてもいいと思うな、旦那さんだって優しそうだし、すごく幸せそうじゃない」

紗希
「女性ならみんな、あんな結婚に憧れると思うけど」

真野
「女の好みはよくわかんねえな。あそこまで完璧だと、逆に嘘くさい気もするけど」

 

話している間にも、記者会見は終わり、遥花さんは控室に戻って行った。

 

真野
「別にたいしたことも話さなかったな。あんたはこれからどうするんだ? もう帰るのか?」

紗希
(私は……)

紗希
「これから、遥香さんと参加者が一緒に会食をすることになってるから、その受付をすると思うけど……」

 

けれど、さっきまでいたはずの女性スタッフの姿がない。

 

紗希
(どこで受付すればいいんだろう?)

 

仕事の指示を仰ぐため、関係者の控室へと向かう。


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するとなぜか、真野さんも後をついてくる。

 

紗希
「……どうしてついてくるの?」

真野
「招待客の数も多いみたいだし、人手はあった方がいいだろ?」

真野
「なにかやることがあったら手伝ってやるよ。ああ、ギャラのことなら心配すんな。今日は特別ノーギャラだ」

紗希
「…………」

 

どうだ、と言わんばかりの様子に、呆れて何も言い返せなくなる。

 

紗希
(うちの会社とは関係ないし、いざとなったあのスタッフさんが止めてくれるだろうし)

 

いい人なのか、偉そうなのかわからないまま、関係者専用の通路を歩いていく。

その時……。

 

???
「あなた、一体誰なの?」

紗希
(この声……?)

 

見ると『加々美浩一様・遥香様』と書かれた控室から、声が漏れ聞こえてくる。

 

遥香の声
「変な言いがかりつけないでちょうだい。二度と電話なんかかけて来ないで」

 

その声の様子から、不穏な内容だとわかった。

 

遥香の声
「今度かけて来たら名誉棄損で訴えるわ。弁護士だっているんですからね」

紗希
「……どうしたんだろう?」

 

声をひそめて真野さんに尋ねる。

 

真野
「言いがかり。名誉棄損。それに弁護士か……。なんだかおもしろくなりそうだな」

 

黙り込んだ私の隣で、真野さんがニヤリと笑う。

 

真野
「俺好みの匂いがするぜ。ここまで来たからには、こうじゃなくちゃな」

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